現代人の心に響く。ゴッホの真実。
2018-02-15
小松絵画教室 暇つぶしの美学
有名な画家といえば?
という質問をしたら多くの人が彼の名前を挙げるのではないでしょうか。
その画家はゴッホ。
ゴッホの作品のなかで人気の有名な作品《ひまわり》
日本の企業(損保ジャパン日本興亜)が約53億円で落札したことはご存知でしょうか?
日本興亜美術館の中島館長のインタビュー記事には
『作品を後世に残すことが美術館の大きな使命。美術作品の与える感動はお金に換算できない』
と書かれていました。
美術館が作品を残す使命、だとしたら
私たち見る側はその画家がどのような思い出描いたのか…
その話を知っておくことも大事なことの一つでなないでしょうか。
今回は
《現代人の心に響く。ゴッホの真実》
●挫折し続けた青年時代

《サン=レミ時代の自画像》フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
1853年オランダ南部のフロート・ズンデルト村で
牧師の家の長男として生まれる。
画商や書店員、教師など点々とし、27歳で画家に転身。
印象派の絵画や浮世絵の影響を受け、独自の色彩感覚・画風を確立したポスト印象派を代表する画家。
ファン・ゴッホといえば、絵に情熱をそそいだ不幸な画家という話は有名だと思います。
そんな彼の青年時代も散々なものでした。
成人し美術商の仕事に就いたのですが辞めてしまい
次は書店員、日曜学校の教師など職を転々としましたがどれも長続きしませんでした。
その原因の一つは彼の性格。
子供のころから頑固で気性の激しい性格で
大きくなるにつれますます気性が荒く、癇癪が強くなっていったゴッホの性格は
社会には到底うまく適応できないのでした。
そんな中、彼はだんだん父親と同じ牧師という職業を目指すようになります。
ゴッホは『神による魂の救済』を求めたのです。
聖職者になる決意をした時の彼の心はどれほど苦悩に満ちて、救いを求めていたことでしょうか。
ゴッホ自身もわかっていたのです
『このままでは決していけない』ということが。
しかし、彼が神に使えることはありませんでした。
牧師になるためには、当時はラテン語やギリシャ語といった語学が必須でしたが、ゴッホは語学習得に挫折。
彼は聖職者の道も断念してしまいました。
そして次に彼を突き動かしたものが芸術でした。
絵を描く母親の影響でゴッホ自身も幼いころから絵を描いていたということ、親戚は画商を営んでいたため絵画に慣れ親しんでいた環境だったこと。
〝絵を描くこと″それがゴッホに残されたたった一つの道でした。
人々の心に慰めと安らぎを与えられることこそが、自身の使命だと思ったのでした。
●〝独学″で画家を目指す!

今も当時も変わらないのが
画家を目指す人は美術学校に通ったり工房の弟子に入る、というパターン。
しかしゴッホは独学で絵を学び始めます。
反発心の強かった彼は、伝統的な美術教育を信じていなかったからなのです。
オランダ修行時代といわれるこの時期は
貧しい農民や労働者といった身の回りの人を題材にいていました。
画家として必要であるデッサン力を身につけるために
ミレーの作品の模写を繰り返していく毎日。

《晩鐘》ジャン=フランソワ・ミレー
農民画家といわれていたミレーはゴッホが最も尊敬した画家で
いつの日かミレーの後継者になることを夢見ているほどでした。
ゴッホは生涯、農村やそこに住む農民たちに畏敬の念を持ち続けました。
『旧約聖書』の創世記では
禁断の実を食べ楽園を追放させられたアダムが
神によって〝土を耕すという罰″を受けるという話があります。
その話と重ね合わせ
農夫が鍬で畑を耕す姿、貧しい人たちが持つ魂の美しさを描くことで
罪と罰、償い、救済の隠喩にしていたのではないか…
そして自身の魂の救済すらも求めていたのではないのでしょうか。
画家になるため修行を始めてから5年。
ゴッホはようやく油彩画を描けるだけの画力を身につけます。
この時期に描かれた《ジャガイモを食べる人々》は5年の修行の成果が出ている初期の傑作の一つといわれています。

《ジャガイモを食べる人々》フィンセント・ファン・ゴッホ
ゆでたジャガイモだけの夕食を家族で囲んでいるこの絵。
村に暮らす人々の絆の強さ、貧困のなかにも尊厳と温かみが感じられ
そこに向けられたゴッホの眼差しは、絵を描くことに対する信念と、人々を見つめるとても純粋で優しいものでありました。
●夢と希望と現実 パリへの決意

1885年ゴッホ32歳。
オランダで絵を描き始めて5年、画家としての収入はなく
次第に家族の中で居場所がなくなっていきます。
家族から厄介者扱いをされても、それでも彼は絵を描き続けました。
しかし、彼の情熱を打ち砕くかのように父親が他界してしまいます。
これはゴッホにとってどれほどの衝撃な事だったのか…
聖職者にはなれなっかたけど、画家として成功して家族に認めてほしかったのではないでしょうか。
今も昔も、画家だけでなく
芸術家・表現者たちが成功することを目指すとき
誰しもが『認められないという現実』に直面し思い悩むもの。
「自分は特別だ。これだけ努力しているのだから、いつかきっと」と。
ゴッホは何かに急き立てられるように行動します。
ベルギーにある王立芸術学院へ行きそこで学ぶようになりますが
基礎デッサンができていないと判断され、ひたすら石膏デッサンをやらされる日々。
ゴッホの性格上長続きするはずもなく、すぐに嫌気がさし学校をさぼるようになります。
この頃ゴッホはルーベンスの作品や日本の浮世絵にに強く影響を受けます。
彼はプロテスタントで、オランダ芸術は厳格で控えめなプロテスタント社会で発展してきました。
しかしルーベンスのように、圧倒的な重量感と色彩を誇るバロックのカトリック美術によって色彩のすごさを思い知り、
それまでの自分の作品の色調の暗さを痛感したのです。
この頃から彼は力強い色彩表現に魅了されていきます。
しかしベルギーでの生活は長くは続きませんでした。
弟テオの仕送りは画材とモデル代に消え、ろくに食事がとれず体は衰弱し生活は困窮していきます。
耐えかねたゴッホは、弟テオのいるパリへ行くことを決意します。
●ゴッホの絵を180°変えたパリの生活

1886年、ゴッホはパリに住む弟テオの家に半ば強引に居候を始めます。
ヨーロッパでも有数の画廊で働いていた弟のテオは、ゴッホにパリの最先端の芸術を教えました。
当時パリでは、ルノワールやモネ、ピサロといった印象派の革新的で先鋭的な絵画が美術界を盛り上げていました。
ゴッホもテオの画廊で出会った印象派の絵画に大きな衝撃を受けます。
この頃であったのがあの有名な絵の、画材商のタンギー爺さん。

《タンギー爺さん》フィンセント・ファン・ゴッホ
彼と画商であるテオの人脈で、ゴッホは絵画の最先端を走るトップの画家たちから絵画理論を学んだり、共に創作活動を行ったりしていました。
その画家の中にはピサロ、ロートレックやスーラなど有名な人物から手ほどきを受けていたのです。
この仲間たちとの交流によって、ゴッホの作風は大きく変わっていくのです。
印象派の画家の多くは、伝統的な屋内での制作をやめ
外に出て実際に目に映る光の印象を、鮮やかな色彩で表現していました。
ゴッホも同じように、
モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の風車・公園など
戸外で制作活動で色彩を学んでいきました。
そしてこのパリ時代によく描いたのが花でした。
彼はパリに来た最初の年、なんと40作もの花の絵を描いています。
花は安く手に入るため、色彩の研究には絶好のモチーフでした。
花の他に〝あるもの″を使って色彩の研究をしていたゴッホですが
〝あるもの″とはなんでしょう?
答えは〝毛玉″。
毛玉は多くの色の種類があり、値段も安く手に入ったため
ゴッホは毛玉を使い、色の組み合わせの実験をしていました。
こうしてゴッホの絵はオランダ時代の暗い色調から
色鮮やかな色彩を使った作風へと変わっていき
画家のポール・シニャックからは点描の技法を学び
南仏の画家アドルフ・モンチィセリから厚塗りと力強く激しい色使いを
ゴッホは自身の作品にもその技術を取り入れていきました。
こうしてあのゴッホのスタイルが出来上がっていったのです。
今まで多くのことに挫折し続けてきた彼が
絵を描くことにだけは、これほど努力と研究を重ねてきた―
その事実をきちんと知っておかなくてはいけない、私はそう思います。
日本でゴッホが有名な理由の一つが、彼が日本の浮世絵に深く影響されていたということ。
ゴッホが滞在していたころ、パリ万博が行われていて
日本の浮世絵や工芸品が注目され、日本ブームが起こりました。
彼は日本の芸術に魅了されます。

そして彼は、パリに到着してからなんと350点あまりの浮世絵を収集します。
ゴッホは浮世絵から色彩・構図を学んだだけでなく
今後の彼の人生も変えていきました。
浮世絵や書物を通して、日本に理想郷を見出していたゴッホ。
明るい光に満ち溢れた自然豊かな国
そこに暮らす日本人の精神性の高さ…。
浮世絵に魅せられた彼は『日出る国』と伝えられていた、日本のような明るい日の光に満ちた世界を求めてパリを出る決意をします。
なぜ彼はこれほど惹かれたのか…
ゴッホはパリを出た後にこんな言葉を残しています。
『時が経つにつれ物の見方が変わり、ますます日本人のような見方をするようになった。色彩も違うように感じられる。僕の人格もここに長くいたら変わってくるに違いないと確信している。』
ゴッホは日本の絵を見て、人々の暮らしや風景はもちろん
日本人の精神性・宗教観なども同時に深く感銘していたと言われています。
ゴッホにとって日本は理想の夢の国。
彼は遠く離れた日本の芸術に救われていたのではないでしょうか。
実際、この頃パリで印象派の仲間たちと交流していくうち
ゴッホは違和感を覚え始めていました。
それは他の芸術家達は芸術のための芸術を目指し、おのれの技術を極限まで高めようとするのに対し
ゴッホが自身の絵に求めたのは、単に美しくて革新的な絵ではなく
生み出された芸術は他者のためになるものであり、そして自らの魂の救済につながるものだという
牧師を目指した時と変わらぬ思想であった為でした。
彼がパリを出る決意をしたのは、そんなパリでの生活に疲れていったからでもありました。
そしてゴッホは日本のような理想郷を求めて
あのアルルの地へ向かうのです。
●求めていた理想郷と待っていた結末。

1888年南フランスのアルルへ旅立ったゴッホ。
なぜ、アルルという土地をえらんだのか?
一つは生活費が安いという画家のロートレックの勧めで
そしてなにより、空気が澄んでいて明るい光に満ち溢れていた土地であったということ。
『日本のような場所』
このアルルこそユートピアであるかのようにゴッホは感じていました。
そしてゴッホは、この地で画家たちが共に生活し、制作に励むユートピアをつくろうと考えていました。
有名なアルルの「黄色い家」を借り、部屋に調度品をそろえ
パリ時代の仲間たちに手紙を送ります。
しかし実際にこの家に来たのは、画家のゴーギャンただ一人でした。
共同生活が始まり、1週間も経つと二人は同じ題材で絵を描いたりして過ごすようになります。
ゴッホは〝目の前の物を元に描く″という描き方に対し
ゴーギャンの〝自然の前で空想と想像を働かせそこから抽象的に描く″という特有の描き方も教わるようになります。
しかしこれが問題の元凶でもありました。
気質的にも、画家としてのアプローチにおいても二人はやはり違いすぎたのです。
最初ゴッホはゴーギャンの画法を気に入っていたのですが、やがて行き詰ってしまいます。
そして〝目の前の物に情熱を注ぐ″自らのスタイルに戻っていったのでした。
この時期のゴーギャンの手紙には
『ゴッホと私は意見が合わない』と書かれています。
そして時は経つにつれ、二人の関係は悪化する一方でした。
そんな二人の生活は長くは続きませんでした。
12月23日の夜、ゴーギャンは『もうここにはいられない』と出て行ってしまいます。
ゴッホはアルルにとどまってほしいと思っていましたが
ゴーギャンの決意は揺らぐことはありませんでした。
そして事件は起こります。
黄色い家を出てゴーギャンが夜道を歩いていると、ゴッホがカミソリを握って追いかけてきたのです。
危険を感じたゴーギャンはものすごい形相でゴッホを睨みつけました。
その気迫に気圧されてしまったゴッホは、どうしようもなくなり家に戻っていきました。
ゴッホが耳を切り落としたのはその直後の事でした。
共同生活を始めて2か月目の事でした。
理想の地で画家たちが共に制作し、共に暮らす場所をつくろうとしたゴッホ。
しかし訪れたのはゴーギャンたった一人だけ。
それでもゴッホは大喜びでした。
ゴーギャンが来る2か月前も前から彼を迎える部屋にひまわりの絵を描いて飾って出迎えたといいます。

《ひまわり》フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホの有名なあの《ひまわり》です。
ひまわりはゴーギャンが「ゴッホの花」と呼んでいた花でした。
あのひまわりの絵は二人の友情の証だったのです。
二人の関係が悪化し始めた頃
ゴッホは自分の椅子とゴーギャンの椅子を描いています。
この椅子は共同生活が始まる前にゴッホが用意したものでした。
自分には質素な椅子を。
ゴーギャンには立派な肘かけつきの椅子を。
その絵にはゴーギャンの椅子に本とろうそくが描かれています。
それは知性と光を表現した、ゴッホがゴーギャンへの尊敬の気持ちが表れています。
そしてゴーギャンはその後
別の場所に移り住み、やがてある絵を描きます。

その絵にはゴッホが用意した肘かけつきの椅子によく似た椅子が
その椅子の上には「ひまわりの花」。
この絵を描いた2年後、ゴーギャンは54歳の生涯を閉じます。
この〝耳切り事件″の後
ゴッホは発作や幻覚に悩まされるようになり、自らサン=レミの精神病院へ入院することを決めたのでした。
●《星月夜》の誕生

《星月夜》フィンセント・ファン・ゴッホ
このサン=レミに移っての1年2か月の療養生活で、ゴッホはなんと400点もの作品を制作しています。
その代表ともいわれるのが《星月夜》という作品。
この絵はゴッホの病室の鉄格子の窓から見えた風景をもとに制作されたのですが、遠くの村や教会は想像によって描き加えられました。
ゴッホは自身の目で見て描く画家でした。
病室の窓から、鉄格子の隙間から、どんな気持ちで見ていたのか…
《星月夜》を見てインパクトを残すのは
黄色という生命力あふれた明るい色をくってしまうほどの青色。
糸杉の暗い色が余計に青を引き立たせます。
人は孤独を感じると無意識に黒い色を使うのですが
ゴッホが感じていたであろうこれほどの衝動を、絵として描ききる才能を神様は彼に与えていたのであろうと思います。
私だったらキャンパスをただひたすら、黒く黒く塗りつぶしていると思います。無意識にそれが『絶望』のごとく作品になることを知っているので。
しかし、ゴッホは絶望と孤独という感情に押しつぶされながらも
ひまわりにも使った黄色という色を使い、かすかな希望さえも諦めてはいなかったのかもしれません。
私自身、青色という色を主題として使っていますが
これほど悲しい青色を、見て感じたことはありません。
●そして終焉へ

ゴッホの病状は悪化していく一方でした。
繰り返す発作に、病院にいることがかえって自分にとってよくないのではと判断したゴッホは、サン=レミの精神病院を出ることを決意します。
1890年サン=レミを出て、パリ北西部のオーヴェールという町に移り住み
ガッシュという精神科医の看護のもと、最後の2か月をこの地で過ごします。
この地でゴッホはオーヴェールの農村を描き続けました。
それは最も尊敬したミレーの模写をしていた自身の原点
農民を描くことを通して貧しい人たちの魂の美しさを描く
その自身の思いを、ゴッホは改めて感じました。
しかし、彼の心はもうすでにボロボロになっていました。
慣れない土地での孤独な暮らし、いつ起こるかわからない発作と
そして最大の原因は弟テオとの関係でした。
この頃テオは結婚し、子供もいました。
妻からは『自分たちの生活が成り立たなくなるので、兄への援助をやめてほしい』と懇願されていました。
『もう援助ができなくなるかもしれない』
と、テオからの手紙がゴッホを追い詰めていったのでした。
それはゴッホが一番恐れていたことでした。
1890年7月
ゴッホは拳銃で自殺を図り、2日後テオに看取られながらこの世を去ります。
37歳の短い生涯でした。
●『ゴッホの手紙』

ゴッホがこの世を去ってから
弟テオの妻ヨハンナはゴッホの膨大な手紙を書籍集として出版しました。
ヨハンナは〝狂気の画家ゴッホ″という世間の伝説から
ゴッホとゴッホの家の名誉を守りました。
そして死後、彼の評価が高まった名声をさらに高める事にも貢献しました。
いかがでしたでしょうか。
たしかに世間ではゴッホは〝狂気の画家″というレッテルがありますが
彼は決して発作になりながらも筆をとっていたわけではありません。
自身の発作が周期的にくることをわかっていたゴッホは
次の発作が起こるまで自分の精神状態をコントロールしながら、凄まじい勢いで制作に取り組んでいました。
なのでサン=レミ時代の作品は
ゴッホの魂の叫びのような、狂気にもにた情熱が感じられるのです。
人間国宝で染色家である志村ふくみ先生の『ちよう、はたり』という書籍の中の一説に
〝「絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生きることは、絵を描くことに値するか」―長谷川利行″
現代の人は「絵を描くことは、生きることに値する」ということには首肯するだろう。
併し、「生きることは、絵を描くことに値するか」と問えば、そんな夢みたいなことといって一笑に附されるだろう。
生きることの一部に絵を描くことがあるので、絵を描くことの一部に生きることがあるなんて狂気の沙汰だろう。
というものがありました。
「生きることは、絵を描くことに値する」
この話はゴッホの人生そのものだと。
ですがこれは現代人には普通のことかもしれません。
「生きるために仕事をしてるか、仕事をするために生きているのか」
そういう問いなのです。
なぜ芸術が、今も昔もそしてこれからも受け継がれていくのか?
それはやはりいつの時代も人々の心を動かしてきたからではないでしょうか。
人生には芸術にふれる時間が必要なのだと思います。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました。
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