我々は何処へ行くのか?永遠の問いを残した画家ゴーギャン
2018-01-31
小松絵画教室 暇つぶしの美学
人生は選択の連続だといいます。
たった一度の選択で、人生が大きく変わった話はよくあります。
それは良くも、悪くも…です。
今回は
2015年に当時史上最高額355億円で落札された作品の画家
そしてサラリーマンから画家に転身したポール・ゴーギャン。
『我々は何処へ行くのか?永遠の問いを現代に残した画家ゴーギャン』
●ポール・ゴーギャンとは

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン
現代では18世紀フランスを代表する画家。
印象派の画家との関係が深いが、独自の画風を確立し印象派とは一線を画す作品を数多く残している。
1848年パリで誕生したゴーギャン。
その頃は革命の余韻が残るパリ。父親がジャーナリストで共和主義であった為、王政の弾圧を恐れ、一家でペルーへ亡命。
この時父親は船の中で命を落とします。
その後幼少期のゴーギャンはペルーの首都、リマでは有力者の叔父のもとで裕福な生活を送ったそうです。
この幼少期の南米の体験が、のちのゴーギャンに大きな影響を及ぼしていくのです。
17歳に母国フランスで海軍水平となり、20代半ばに退役。
そして知人の紹介で株式仲介人として働き始めます。
●実は超優秀なサラリーマンだった
今ではゴーギャンといえば〝画家″ですが
彼は始めは普通のサラリーマンでした。
世界経済の中心として活気に溢れていたパリ。
パリ9区に暮らしながら、優秀な株式仲介人として充実した日々を過ごしていました。
わりと裕福だった彼は近所の画廊を見て楽しむようになり、絵画への世界に関心を持つようになります。
そんな中、同僚のすすめで自らも絵筆をとるようになります。
私生活ではデンマーク人の女性と結婚し、5人の子供にも恵まれます。
彼は仕事に勤しむかたわら、休日になると日曜画家として絵画を楽しむ生活を送っていました。
●趣味も仕事も絶好調!

ゴーギャンは絵を描くことに生きがいを感じ始めます。
趣味の日曜画家はやがて、デッサンや野外制作をするようになり
美術学校にも通い始めます。
やがて、当時の印象派であった画家ピサロと出会い、彼がゴーギャンの絵の師匠となります。
このピサロは印象派のご意見番的存在で、面倒見のいい彼にゴーギャンは様々なことを学びます。
ピサロの指導により、ゴーギャンは画家としての技術を格段に進歩させていきました。
こうしてピサロと行動をともにする中で、ゴーギャンは他の印象派の仲間たちとも交流していきます。

彼の才能は開花していき、1876年のサロン(官展=フランス王立絵画彫刻アカデミー主催の歴史ある展覧会)に初入選するまでになります。
ピサロに誘われ、第4回~第8回の印象派のグループ展に参加。
それは特別なことで
第5回印象派展には素人の出品に反対するルノワールやモネを、ピサロが説き伏せるほどでした。
株式仲介の仕事は、好景気のおかげで経済的に余裕があり
ゴーギャンは日曜画家として活動するなか、他の印象派の絵画作品を収集したりしていました。
彼は美術愛好家というような、満ち足りた日々を送っていました。
しかし、そんな順風満帆な生活は終わりを告げます…。
1882年彼の人生は一変してしまうのです。
●『画家になる。』そして人生のどん底へ

1882年何が起こったのか?
それまで好景気であったパリですが、1882年ユニオン・ジェネラル銀行が倒産。
経済は不況に傾き、1884年にはそれに伴う金融恐慌がパリを襲います。
ゴーギャンは株式仲介人の仕事に危機感を抱きます。
そして35歳の時、彼は人生を大きく変える決断をするのです。
それは
『これからは画家として生きていく』
ということでした。
サラリーマンと日曜画家という二重生活をやめ
画家として生計を立てるというのです。
夫の無謀とも思える決断を知った妻は
経済的に自立できる仕事を見つけ、愛想をつかして出て行ってしまいます。
結果この転身は上手くいくはずもなく
家庭は崩壊し、経済的にも困窮していくのでした。
そんな明日のパンにも困る生活の中で
ゴーギャンは絵を描くことだけは、やめることはありませんでした。
趣味だった絵画はいつしか、彼の人生のすべてとなっていました。
●自分にしか描けない絵を求めて…

大都会の生活に魅力を見出せなくなったゴーギャンは
ブルターニュ地方の村に映り、独自の画風を模索し始めます。
しかし、絵も売れず、焦りはつのるばかり…。
その後、心機一転
大西洋を越えてマルチニーク島(西インド諸島)へ向かいます。
そこは灼熱の太陽の光のもと、幼少期に見た南国の亜熱帯の世界が広がっていました。
ゴーギャンは南国の自然に魅了されていき
『近代人が忘れた野性を描きだすこと―…それこそが自分のテーマである』
その心を胸に、また創作に没頭していったのでした。
しかし、病の為半年で帰国。
マルチニーク島から戻り
南国の島で手に入れた色彩感覚を絵に取り入れたゴーギャンの絵は、仲間たちから好評を博します。
その後
画商のテオ・ファン・ゴッホと介して
あの兄のヴィンセント・ゴッホと出会います。
二人はゴーギャンの作品の良き理解者でした。
ゴーギャンはフランス南部のアルルでゴッホとの共同生活が始まりますが
お互い個性が強いもの同士。
うまくやっていけるはずもなく、2か月で二人の生活はゴッホの有名なカミソリ事件で終わりを告げます。
こうして幾多の試行錯誤を重ねている日々の中
パリ万国博覧会でジャワ舞踊に出会ったゴーギャンは
その強い個性に魅せられ、南洋タヒチへの旅を決意します。
〝近代人が忘れた野性を描きだすこと―″
理想の楽園を夢見たゴーギャンですが
そこで待っていたのは、彼を裏切る現実でした…。
●近代文明との闘い

1891年ゴーギャンは念願のタヒチ島に降り立ちます。
しかし、彼に待ち受けていたのは求めていた原始的な『楽園』ではなく
西洋人によって支配された『植民地』でした。
タヒチの人々は皆、西洋人の服を着て
フランス語を話し、キリスト教の教会に通っていました。
島の奥地には手つかずの自然があったものの
タヒチの固有文化は微塵も残ってはいませんでした。
この現実はゴーギャンにとって、どれほどの絶望であったことでしょうか。
次第に彼はすがるように野性の面影を求め
自己の創造性のためにあえて幻想の世界を作り出し
その架空世界という眼鏡を通して、タヒチを美化して制作をする日々が始まったのでした。
しかし、どんなに西洋文化を否定しようとも彼は〝西洋人側の視点″でした。
一回目のタヒチ滞在期間中の彼は、この島に永住しようなんて気はさらさらなく
この幻想の楽園から早く〝できるだけ多くのものを吸収できればいい″と考えていました。
この頃、健康面で問題を抱え金銭的にも底を尽きかけていた彼は
一刻もフランスに戻り、タヒチで制作した作品を発表し
崩壊した家族を再び取り戻そうとしたかったのです。
そして2年後、パリで作品展を開くために66点の作品を持ってタヒチを後にします。
しかしまたしても、運命はゴーギャンに過酷な試練を用意していました。
●起死回生のパリ個展

1893年、世間から評価されることを期待し開いた個展でしたが
結果は大失敗に終わります。
自身のエキゾチックな世界観を表現するため
タイトルはすべてタヒチ語で表記していました。
しかし、フランス人にはタイトルの言語が理解できるはずもなく
さらにゴーギャンが描く原始趣味はあまりにもエキゾチックで刺激が強く
当時ではあまりにも前衛的過ぎたのです。
そんなゴーギャンですが
1894年の個展では作品が徐々に売れ始めています。
そして幼少期にお世話になった叔父の遺産の一部を相続もしています。
ようやく人生の新しい兆しが見え始めたかと思う矢先
叔父の遺産の件で妻ともめ、正式に二人の関係は破綻
さらには愛人に全財産を持っていかれる始末。
追い打ちをかけるように
とある雑誌にはゴーギャンを酷評する記事が掲載されます。
次第に孤立していき、もう祖国には彼の居場所がありませんでした。
そして1895年、再びタヒチに向かいます。
もう二度と母国に戻ることのない旅路でした。
●〝我々はどこへ行くのか″

二度目のタヒチでは、徐々に絵が売れ生活が安定した時期もあるのですが
やはり辛い日々のほうが多かったようです。
とくに健康面では
梅毒やくるぶしのケガの悪化、結膜炎を患い肝臓の悪くしていました。
とどめを刺すかのように経済的にも困窮していた時
その知らせがゴーギャンのもとに届きます。
最愛の一人娘テリーヌの死を伝える手紙でした。
さらには家の立ち退き問題など
絶望の底に落ちた彼は自殺未遂をはかります。
そんな彼が遺書代わりに描いたのが
ゴーギャンの作品で一番知られるあの作品
《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》

《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》ポール・ゴーギャン
遺書代わりで描いたこの作品はゴーギャンの代表作になるとは
あまりにも皮肉な結果です。
賛否両論あったこの作品は3年後には売却されます。
この作品以降、彼の作品には
あの思わせぶりなタヒチ語のタイトルが付けられることはありませんでした。
1901年ゴーギャンはタヒチ島から1500キロ離れた
マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移ります。
移住後は「快楽の家」と名づけた小屋を建て
原住民と同じような格好をして暮らし、原住民と共存して暮らしました。
この頃ゴーギャンの傑作の一つとも言われる《野蛮な物語》という作品が生まれています。
1903年、ゴーギャンは島のアトリエで心臓発作を起こし
54年の激動の人生に幕を閉じます。
彼の死後、画商のアンブクローズ・ヴォラールが展覧会を企画・宣伝し
ゴーギャンの作品は注目を集め母国で有名になります。
いかがでしたでしょうか。
今回のブログではゴーギャンの暗い部分が多すぎて
書いていても少し気分が沈んでしまいました…。
ちなみに
このゴーギャンという画家は画風だけでなく、一番革新的だったのは
自分自身を〝セルフプロデュース″した画家であったということ。
彼は自分を〝タヒチ帰りのエキゾチックな画家″として演出し
当時のパリでは堅気な職業人とは明らかに違う奇抜な「ボヘミアン風画家」のような格好をし
大々的に「芸術家である」というデカダン的な奔放な生活を送ります。
アトリエには自分のイメージに相応しい「原始趣味」のようなタヒチから持ち帰った原始美術や民族美術が飾られていたといいます。
まさに現代では当たり前なイメージ商法を使っていたのです。
これはやはり有能なサラリーマンであった、彼の頭の良さの象徴的なエピソードだと思います。
しかしそれがゆえに様々な人とのトラブルも絶えませんでした。
もし
彼が画家ではなく、職業人という道を選んでいたならば
経済界の中心にもなっていただろうと思います。
しかしそうなれば
《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》
というこの作品が世に生まれることはありませんでした。
この作品もさることながら、このタイトルは
私たちも考えさせられる言葉でもあります。
とくに自分というものが〝何者であるか?″
という問いは、一度は誰しも考える問いではないでしょうか。
何者であるか、何者であり続けるのか
そしてどこへたどり着くのか。
自分の自由意志が人生を決めているようで
実は見えない何かに導かれているところもあるように私は思います。
私自身も過去にどんな道を行こうとしても
『結局この道に連れ戻されている』という感覚があります。
きっとこれは特別なことではなく、誰もが自分自身を深く考えてみると思い当たることだと思います。
ゴーギャンは〝まぼろしの楽園″という世界に逃避してしまいましたが
我々現代人は人生に迷った時・疑問を感じた時
自分自身を深く見つめる必要があるのではないかと思います。
そうすると、やはり過去に通ってきた道も必要だったということが必ず見えてきます。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました。
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